北アルプスソロハイク、3日目。
時折、パラパラパラパラ、とフライを雨粒が打つ。近くの雨雲から降ったのが風に乗って飛んできているようだ。この音で起きるまで一度も目が覚めなかった。どうやら熟睡したようだ。
ああ、今日は雨か…、と半身を起こす。
腕時計を見ると3時を過ぎている。今日は三俣蓮華と双六を縦走して、双六のテントサイト泊の予定。行動時間としては5時間の設定。なので、もう少しゆっくりしていられるのだが、フライをひつこく叩く雨粒の音を聞いて、早目に動いた方が良さそうだと思った。
ちょうど玉子を割る音が聞こえてきた。一体何個玉子を持ってきているんだろう?とぼんやり思う。
テントを出て声を潜めて「おはようございます」と言う。Sさんも「おはようございます」と言う。既に出発している人もいるが、まだほとんどのテントが眠っている。
「今日、双六までですよね?」とSさんが僕に訊く。僕は真っ黒な空を見上げ、少し考えて「はい」と言う。Sさんは雲ノ平へ行くと昨日は言っていたが「昨日来た道を戻って折立に下ります」と言うと同じように空を見上げた。
朝食は、予備に持って来たフリーズドライの牛とじ丼。そぼろふりかけでよかったのだが何か違う味の物が食べたかった。既に生食に飢えていた。インスタントの味を思い出しただけでも吐き気がする。少し前までこんなことはなかったのに。味の好みが変わったのだろうか。
登り詰めて稜線が近くなると一気にガスが濃くなり雨も風も強くなる。
いよいよ稜線に出る。その前に全てのベンチレーションを閉じて風に備える。
稜線に出ると全身を雨粒が叩いた。フードを叩く音が耳に響く。時折、ドンッと風が当たり、ザックの重みとともに体が持って行かれる。ポールを握る手に思わず力が入る。ふと痛みを覚えて手を見ると、一昨日からポールを握り続けていた指と爪の間が割れて血がにじんでいた。
7時16分、三俣蓮華ピーク。富山、岐阜、長野の県境。風雨激しく、すぐこの場を後にしようと思うも、このピーク自体が分岐点だった。このまま双六ピークに稜線を行くルートと、下りて巻くルートがある。
高齢者のパーティーとすれ違った。リーダーの人が上の状況を訊いてきたので伝える。「ところであなた、若者ふたりを見ましたか?」とリーダーの人が訊く。誰のことか分からなかったが「人は見ましたよ」と答える。
その後、噛み合わない会話を続けていると、「雷鳥の鳴き声が聞こえる!」と誰かが言った。僕には「ラク!ラク!」と叫ぶ人の声に聞こえたが落石の気配はない。フードを被っているので人の声なのか、雷なのか、雷鳥なのか本当のところは分からなかった。ただ、会話をしたことで緊張感が少しとけた気がした。リーダーの人も何でもいいから会話がしたかったのかもしれない、と消え行くパーティーを見上げる。
双六の巻き道に入った。風は収まっている。2年前に痛めた膝を引きずりながら歩いたセクションだ。お花畑に囲まれたフラットで広いトレイルが続く。
雨も弱まってきたので禁断の自撮りに挑戦する余裕も出て来た。今回は自撮りをするつもりで三脚を持って来たのだが撮ったのはこの一枚だけ。
2年前と同じパターンでガスが切れて向かい側の山肌が見え始めると雨がやんだ。
9時前、巻き道も終わりに差し掛かった。双六ピークへの分岐にパーティーが見える。
分岐点に上がると吹きさらしで風が体温を奪う。穏やかだった巻き道とは別世界。そんな中、いくつかのパーティーが双六にアタックして行った。
分岐からすぐ、小屋とテントサイトが見える。大規模な小屋なので都会に来た気分になる。
9時14分、双六小屋着。今日の目的地はここ、なのだが時計を見るとまだこんな時間。どうしようかと迷う。雨はやんでいる。今の内にテントを張ってガスが切れたら双六に登るか、頑張れば鷲羽も行けるかもしれない。
ただ、また降るのなら雨の中これからずっとテントに閉じ込められるのはたまらない。夜まで10時間近くテントで過ごすことを考えると無性に温泉に入りたくなった。レインウェアの中は汗と吹き込んだ雨でぐっしょりと濡れていた。デリケートなゾーンは全然デリケートじゃない状態だし。
今日のゴールだと思っていた所がゴールではなく、明日のスタートでもなく、ここで考えなければならなかった。
その前に、たまらなく空腹だったので小屋食をオーダー。生野菜が入ってることを期待していた通り、生キャベツが入っていた。
むさぼるように5分で食べて、ひと心地着いていると土砂降りの雨が降ってきた。前の席でお湯を沸かして昼食の準備をしていた人が「うはっ、降ってきた!俺のカルボナーラがああああああ!」と叫ぶ。周りでは「撤退」「下山」という声が次々に上がる。
もう下りよう、と決めた。
鏡平まで下りるか、わさび平まで下りるか。鏡平はテントが張れないので小屋泊まりになる。2年前に鏡平に泊まった時の夕飯を思い出して、鏡平いいかもな、と思うも9000円かかることを考えれば、テントの張れるわさび平まで下りた方がいいかもしれない。いや、まだ時間はたっぷり有るのでひょっとすると新穂高まで下りられるかもしれない、となると今日中に家に帰れるんじゃないか?
そう思い始めると、新穂高の温泉と定食屋のごはんがまず頭に浮かんで、次に高山の駅弁とビールが浮かび、そして今夜は家の布団で快適に眠る自分の姿が浮かぶ。そんな妄想をして、雨に打たれる中、愕然とする。家の布団で寝て、翌朝起きたら仕事に行く準備をする自分の姿が浮かんできて愕然とする。結局、山から下りて前の自分に戻りたがっている。一昨日見た夕陽、青空のもと昨日歩いた稜線、その時胸に抱いた思いはなんだったのか、全てなくなってしまいそうな気がした。
コースタイムを計算し、5時間で新穂高に下りると決めた。
そうと決まると僕は雨に追い落とされるように、ガスの中を転がるように、先の見えないトレイルをひたすら歩いた。
13時、林道。動きの鈍くなってきた足で硬く舗装された道を踏みしめた瞬間、終わったのだと思った。寂しくも、ほっとしていた。